昭和50年11月26日 朝の御理解



 御理解 第13節
 「神は向こう倍力の徳を授ける」

 神様へ向かうと言う事はどう言う事だらうか。そしてお徳を頂ける程しの向かい方、その焦点又その実行と言う事から。神は向こう倍力の徳を授けると言う事になるのです。昨日は25日の研修会で、まあ大変おかげを頂きましたが、中に合楽の田中さんが発表された中にこんな話をしておられました。昨日朝の御祈念を終わって帰らせて頂いて、一寸こう教会の方を振り返らせて頂きましたら、もうそれこそ雲か霞みか分からないけれども。教会の屋根の上にずうっと教会の上だけに。
 霞みが懸かっておる様にしてもうそれこそ厳かなまでの情景にふれて。有難いなあ合楽の金光様ちゃ大変な有り難い所だなという意味の実感に。言わばそういう尊い情景にふれて、感動したという話をしておられました。そして先日から此処の向こうに溝があります、サブタといいますかね。石を堰切るのが立っておる所に、此処が宮の坪と言う所だそうです。そしてすぐそこの合楽食堂の向こうにあります。小さい橋が何と天神橋というのだそうでございます。
 とにかく合楽と言う所は唯合楽の金光様というけれども、本当にいつも親先生がおっしゃる様に、所謂神ながら神定めの地であるという風に言われると言う事をです。もう感じん訳には参りませんというわけです。示現活動を此処で言はして頂く様になって、合楽という地名だけからでも、例えば善導寺、勿体島椛目。そして常持そして合楽というその合楽へ向かうと言う事がです。言わばおかげを頂いて、常に喜びを持ち続けるという常持からもう一歩前進して、合楽に向かうと言う事。
 その事が有り難い、そう言う事から考えても如何に合楽に向かうて来ると言う事が、有り難い事かと言う事がわかる。だから結局私は神は向こう倍力の徳を授けると言う事はです。合楽に向かうて来る事がそのまま徳を受ける事です。勿論その合楽に向かうて来ると云う事は神も助かり氏子も立ち行くと言う事なんです。もう合楽に本当に打ち向かうてきたら、絶対真善美のおかげが受けられるですね。
 道を例えば此処で頂いている教えを頂ける第一貧争病がなくなったりそれから輝かしい迄の真善美の世界が開けて来る。今日も今朝からこうして暖房が入っとりますから、一番にその事のお礼を申さして貰いました。そしたら神様、神様がどういう姿をしてあるか知らんけれども私が頂く所では。神様、神様と人間がこうやって抱擁しあっている所を頂きました。これが合楽です、合楽の姿です。
 そりやもう寒うしてがたがた震えながらご祈念をする。そりや一生懸命御祈念をする、だからそれが修行となる。これも有り難いです。けれども合楽の在り方では、どこまでもです寒い時には、それこそ何というてもです一番のおご馳走は。さあどうぞというて火鉢の一つも持って行くのが一番の御馳走であるように。熱い時には涼しい風の通る部屋で、過ごす事はああ今日は極楽とこういうでしょう。合楽の場合にはさあ、暑かれば冷房が入り、寒かれば暖房が入りというのはです。
 普通でいう贅沢というのではなくてそれが神の願いなのです。だからそれを当たり前と思わずにこの寒いのに言うならばこういう暖かい所で。信心の稽古が出来ると言う事に、愈々有り難いというものに感じさせて頂けれるそれが合楽です。個人の各自の所でもです、そういうおかげの頂けれる世界、貧争病のない世界、然もそれが真善美に輝くばかりの。それこそ昨日田中さんが、見られたというそれは、じっと振り返らせて頂いたら、お広前の上にそれこそ厳かなまでの風景を拝まして貰うて。
 成る程合楽の金光様は違う。合楽金光様は成る程尊い、有り難い成る程此処に鎮まりましたのは、もうこれは神様のお約束ごとである。此の土地を宮の坪と言うと言う事から、またすぐそこの橋を昔から天神橋と呼んでおるという石に刻んであるそうです。天神は天の神と書いてあるげな。所謂私の事を天神様という表現で頂く事がありますように、成る程もう本当に神乍らの事だ、その神乍らの所へ向かうて来る、合楽えへ楽へと向かうて来る、それがそのまま倍力の徳を受ける事になる。
 その合楽に向かうて来ると言う事はどう言う事かと言うと。神様と氏子が抱擁し会うて喜び会うと言う様な、言わば神も助かり氏子も立ち行くと言う様な信心。そういう常に持ち続ける信心のおかげを頂き喜びを頂いて、有り難い勿体ないというだけに止まらずに、その喜びを神も助かるという御用にでも立たせて頂かなければ。止まれんという信心に向かうて来ると言う事が徳を受ける事であります。
 皆さんが本当に神も助かり氏子も立ち行くという。そういう御用の一つも出来るというおかげを頂かして貰わんならんという。願いのもとに。合楽通いをなさらなければいけません。言うならば同じ打ち向かうてもです。同じ合楽に通うて来ても、唯おかげを頂くと言う事だけに打ち込んで打ち向かうておったんでは倍力の徳にはなりませんです。勿論今申します様に貧争病のない世界。真善美に輝く世界と言う事の言わばおかげを頂くのですけれどもそのおかげがです。
 神様のお喜び頂ける事に、行使されなければならんです。少しばかりおかげを頂くともうそのおかげに腰掛けて、そして身の贅沢をする様になる。そういう信心ではお徳が受けられる筈は有ません。同時にです神は向かう倍力の徳を授ける神に向かうと言う事は、私共の所謂生活の現場と親神様は仰るですね。各自の生活の現場に於いてです所謂信心を現さなければならないお互いの家業の中にです信心になって行かねばならない。
 是も昨日久留米の佐田さんが発表しとられました。以前は久留米で食料品の小売をなさった。野菜果物から食料品全般の小売をなさってた。その時の事の話をなさってましたが、私の方にはその当時大繁盛したのですね。子供さんを買いにやった方が、よい品物が貰えるという評判があったそうです。定評があったそうです。特に子供さんが買いに来ると。その当時八銭なら八銭、九銭なら九銭の玉子でも、子供さんが買いに来たら十銭のものを上げると云う様な気持ちでお商売をさして貰いました。
 先日も或る所で、ジヤガいもを買いにやらせて頂きましたら。その中に幾つか腐ったジヤガいもが入っとる。というのではなくて、もう大人が買いに来たら、自分から大きなもの綺麗なものを選るから。まあどうぞとほったらかしとけばよいけれども、子供が来た場合には、もうそれこそ大きいのからと選ってやる。卵なら一銭高いものをと、持たせてやる。だからあそこは子供に買いにやっても安心だというのではなくて、子供を買いにやった方が却って良い品物が貰えるという評判が。
 繁盛する筈ですよね。そりやまあ後から屑が残っちゃならんから。こうやって屑も混ぜくってから売るというのが普通です。こりやみすみす古いと言う事が分かっとったっちやです。それを混ぜてやるとか、れを子供なら尚更文句を言わんから、持たすと云った様なね成る程繁盛する筈です。奥さんの里が日田で酒の卸小売をなさっておられましたのが、倒産状態になりましたから、その酒屋を立て上げに夫婦であちらに行っとられました。もうそれこそ何年行っとられましたでしょうか。
 四年もうそれこそ四年の間に瞬く間にまた立派な酒屋さんになったんですから。如何にその在り方というのが素晴らしかった事が分ります。現在ああして大きな卸問屋をなさる様になってからでも一際目立つおくり合わせを頂いておられるというのはです。そういう例えば仕事に打ち込むというても一生懸命がまだすと言う事ではないです。如何に信心にならなければならないかと言う事です。
 例えば果物一つでもです、矢張り屑が残りますから、屑の残らんごとというて、その中に混ぜてやると、これがまあ一般でしょう。けれども大きいのから大きいのからと選ってやる。相手が子供のお使いであるならそこに心をとめて、八銭の卵を買いに来ても、九銭の卵をやると言う様な、行き方をさせて頂いた。おかげで大繁盛のおかげを頂いたという、頂いておった商売のそのやり方です。
 私は本当に思うです。金光様の御信心をするならね。そういう行き方にならにゃいかんです。それにですあそこは金光様の信心しよるばってん、他所んとより高か品物が悪かてこげな事でお徳の受けられる筈は絶対ないです。人間の目先の汚い特に商売人は汚い。所謂ソロバンを持ちますけれどです、神に向かうと言う事は、自分の仕事に信心で向かうと言う事です。そう言う事になれば。
 いま佐田さんが言われる様に、他に手はないです。神に向かうと言う事は自分の仕事に自分の持ち場持ち場に如何に忠実に然も信心の教えを元にして、それに取り組むと言う事です。そういう取り組み方、そういう向かい方に神は向かう倍力の徳を授けて下さるのです。そこに商売大繁盛の鍵があります。商売だけの事ではありません、百姓しとってもそうです。同時に先日から頂きました様に、お道の信心は自らの良心の道だという御理解を頂きましたですね。神に向かうと言う事は、和賀心に取り組むと言う事です。
 先日二十三日が東町教会の御大祭でした。若先生が頂いてから帰ってその事をいち早く私に話してくれたんですけれども。もう本当にお参りも沢山ありました、東町教会から今村さんとか稲垣さんとか元東町でおかげ頂いとられた方達が、ここに毎日参って見える言うなら信者を取ったの取られたのといえば、そう言う風に成る訳です。所があちらの先生が神様えの取り組み方というのか成る程、信者が減った様であるけれども、返って増えていると云う事実からです。
 堤先生という方のお説教があったそうです。その後であちらの教会長先生のご挨拶がありましたその中にです。私は最近自分が難儀を感ずる時にです、自分が不幸を感ずる時に自分自身を見極める事に。精進しとりますという話をされたと。例えば信者が減ったと云う時には、例えば合楽の教会が建ったと云う様な風でなくて。まあ具体的ないうならばです、結局自分から離れて行くと言う事は。
 自分自身を本気で見極める以外はないのだと、私は今それに取り組んどる。成る程御大祭が何時もよりも沢山なご参拝があって、麗しい御大祭が仕えられた筈だと思います。もう先生方が御直会を頂かれて帰られるそうです。それで合楽の先生あんた残ってくれんのと言われるから残っておったら、大変な喜びで大変なサ一ビスを受けて帰ったと申しております。先日から或る教会に参らせて頂いた。
 そしたら其処の一緒に参っておられた先生が。あんた方は他所の信者ば横取りするげなけんでというてえらい見幕で話されたと。それではやっぱりおかげにならん。取るとか取られたとかではないですけれども、よしそんなら自分の所の信者が減ったとか取られたとかいうならです。取られなければならない元は、教会長自身にあるんだという。東町の先生の様な生き方になればです。そこから返って有り難い御比礼が輝くのです。
 是を自分の良心の道だというのです。自分の心に取り組むと言う事なのです。そういう取り組み方、そういう打ち向かい方に必ず神は倍力の徳を授けて下さるので御座います。素晴らしいですね信心は。神は向こう倍力の徳を授けると言う事の打ち向かうと言う事の内容を今日は三つに分けて皆さんに話しました。合楽に向かうと言う事、それはそのまま純粋な合楽に向かうと言う事、それは必ず徳を受ける事。
 おかげに向かうのではなくて、合楽に向かう。次に自分の御用に対する打ち向かい方。佐田さんの例をとりました。そして三つそれは自分の良心、自分の心に取り組むと言う事。それを東町教会の教会長先生の事をもって聞いて頂きましたですね。こういう三つがです、足ろうていく打ち向かい方をするならば、神様はもう必ず討ち向かう倍力の徳を授けて下さる。いわゆる貧争病はまたたく間になくなるでしょうね。
 そして貧争病だけではない、真善美に輝く世界が、家庭の上にもまた周辺にも光り輝く様になるでしょう。私は本気でそこに取り組む、本気でそこに向う、そこに私が申します。そう言う所に焦点を於いてです、お互い日々の信心修行であり。又は日常生活の中に、又は自分の心にです、取り組んで行かねばいけないと思います。そこに倍力の徳を授ける、唯お参りをしよれば徳を受けると言う事では決してないと言う事で御座います。
   どうぞ。